富士見ファンタジア文庫――神坂一。そして2人の天才と2人の秀才
五代ゆうについては冴木しのぶ、小林めぐみ、ひかわ玲子、竹河聖とかの有象無象の女性ライトファンタジー作家を先行作家として考えていいような気がする。滝川羊については語るに足るだけの材料があるの、という疑問がまずあって、『風の白猿神』自体はよくできてるけど『ザブングル』とか『FSS』とか『聖刻』とか『ガルディーン』とかの荒野ロボの系譜って以上のものがあるのかなあ、とは思う。
今回はあんま関係ないけど吉岡平とか庄司卓とかもいろんなことの考慮に入れてあげてください。庄司卓は多少スレイヤーズフォロアーっぽく動いてないか、そういや。
話は嵩峰龍二にまで遡らせる必要があって、前から言っている手からビームが出る理由の差異化ゲーム、というところに落ち着くわけだ。
『スレイヤーズ』がどこで圧倒的に勝ち組になったのかというと、それは多分ドラマガの誌面での扱いなんかを追いかければわかるような気はするし、そう言うことをする前になんだかんだと言うのは非常によくないのだけれど、『スレイヤーズ』はシリーズ開始当初の2,3年は売れてるけど鬼子、という扱いだったような気がする。
王道はあくまで冴木忍やらひかわ玲子やら竹河聖やら。
ゲームのパロディーのはずの『スレイヤーズ!』はだから、そうである事よりも特異な世界観・魔法観を打ち出したファンタジーとしてこそ受容されたのであって、それはTRPGと連動したSNE系諸作品や庄司卓作品などと併置されて、世界観=手からビームが出る理由の差異化ゲームの中に飲み込まれていく。
これは多分ロマサガあたりで頂点を迎えたCRPG的なものが陳腐化していき、次世代機(無論、メガCDやなんかは先行するわけだが)の登場に至って映画的・アニメ的な演出に頼らざるを得なくなっていった歴史と恐らく綺麗に重なるはずだ。CRPG的性が特異なものではないとライトノベル界の内的条件とは別のところで規定されてしまった時代だったのだ、多分。ファミコンブームからゲーム産業への転換期、と言い換えてもいいかも。
ここに格ゲーブームによるゲームに関する新たなコミュニケーション経路の創出を絡め、CRPG的性の尻尾を引きずったライトノベル、というかラノベヲタがオタクの中でも下層民と目されていく歴史が引っ張り出せますか? 宮台の第ナントカ空間とかで。
『スレイヤーズ』の後継がないという問題は、後継云々以前にまず『スレイヤーズ』がまだ現役、という事実をどうしたものか、というところで。
恐らくは『ブギーポップ』以降のような状況に何故ならなかったのか、という問題意識だとは思うのだけれど、みんな橋本紡よりは臆面があっただけ、という気がしなくはない。そのような臆面を可能にしたのは、『スレイヤーズ』と同時期に冴木忍や『風の大陸』も売れていたという市場の豊かさではなかろうか。
ここで『星界の紋章』が出てくる。あれはSF――というか広義の幻想文学の側からのライトノベル的なものへの結構露骨なアプローチで、世界観の差異化ゲームへの強力な意志をさえ感じさせる作品なのだが、これが20万部出た事で、似たようなものとしてのライトノベルが注目され、そこに『ブギーポップ』が登場する。
世界観の差異化ゲームという実に特殊な論理で動いていたライトノベル界が、一般エンタテインメントの一部へと組み込まれる。その事により、CRPG的性の内側での差異化ゲームに安全に興じていられたライトノベルは、CRPG的性という外枠を外されて、安全策としてのセカイ系へのひきこもりを余儀なくされる。
と言うくらいのことはなんとなく想像がつくのだけれど、まあ何分机上の空論。
続く、のかしら?
上遠野と、臆面のなさを持ち込んだ橋本紡と、手からビームが出る理由の差異化ゲームの怪物の川上稔とが同じ賞出身というのはなんだかすごいことな気はする。
確かにあらいずみは最先端エロ絵だったかも。
関係ないけどエロ絵と言えばムスメットのキャラデはうたたねに似てるって気付いた。90年代。