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四季折々のへんじゃぱ

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2005.08.23 Tuesday

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古橋上遠野秋山を日本SFの最先端と呼んだのは大森望だが前二者はともかく秋山のどこが先端なのか小一時間問い詰めたい、と言うよりは説明を受けたい。

2005.07.10 Sunday 03:59
 身内の若い子が読書会やってんすよ、SFの。何を物好きなSF研でもあるめえにSF研だよ! というお約束はまあやっておくとして、『百億千億』とかやってたんすわ。
 その読書会のログ読んだらこう、微妙に不満というか、語りたい欲が刺激されたので書くなり。若い子への啓蒙モードでキモいので逃げた方がいいよ、該当者以外。


 君らあとがき読んだ?
 いっとう最初に『幼年期』の話してるやん、光瀬龍。

 『百億千億』は『幼年期』と『果果』の二つの補助線を引くとぐっと分り易くなります。この二つが同時に「SFM」で連載されていた、というのも奇妙な歴史の暗合でありましょう。
 『果果』が『幼年期』をどう咀嚼したのか、は「宇宙精神と収容所」でも読んでもらうとして、ここで重要なのは、現代日本SFの原点と言って然るべきこの二大傑作(の一方がハルキ文庫から出るまで新刊では読めなかった理由とか知ってる?)が二つながら先行するテキストをどう解釈し、どう超克するか、という極めて高度に文脈依存的な作品であった事、つまり現代日本SFのスタートラインが解釈学であった、というその一点なわけです。
 日本でイーガンが生まれてないのは結構そういう理由。

 というのは『百億千億』と『果果』の同質性に着目した場合のアレで、その差異に着目するのならば、その全く対照的な『幼年期』受容の態度が日本SF/ライトノベルの潮流をどう形作っていったのか、といった話にもなるわけさ。
 ロジックで弁証法的に超克しようとする小松、エモーショナルにちゃぶ台返しを仕掛ける光瀬、とまとめてもいいけれど、小松左京の方法論は実のところ継承者があまりいません。
 本人がいつまでも存在感のあるSF作家であり続けたから。
 光瀬龍はすぐにジュブナイルや時代小説に移ってしまい、SF作家としては結構早い時期に枯れてしまっていたため、結構ぽこぽことフォロアーが出た。山田正紀とかね。いや、その、ほら、ロジカルでだけはないじゃん? その最も矮小化した形を梶尾真司の女性名シリーズに求める事は恐らく間違いではない、というか、堀晃のあれで結構しみったれた感性とか、第二世代作家がシリアス/ハードに走ろうとした時に小松的なロジカルな構築ではなく光瀬的なエモーショナルなイメージに偏しがちである事は多分指摘しておいていいと思う。筒井とか眉村とか星とかの軸はあえて無視しているので悪しからず。情報サイボーグってほとんど司政官だよな。
 小松左京の継嗣を後続の日本SF作家に求めるのならば、野阿梓の登場をまたねばならないのだけれど、この人が択んだのは、小松のグローバルな語りの位置を放棄して、ローカルな日本の位置からクラークと小松を批判的に継承していく道だったのであって、これはその後森岡浩之と言う名の袋小路に至る。森岡が最後のSFコンテスト出身作家であった、というのはなんとも興味深い暗合ではある。
 コンテストの廃止により、SF作家のタマゴがSF作家としてデビューする道は基本的には断たれ、そのタマゴたちはライトノベル方面へ流れていく事になる。
 このような流れタマゴから孵った二羽の巨大な白鳥が、古橋秀之と上遠野浩平である。
 あ゙ー、やっとタイトルの二人出てきた。
 エモーショナルなちゃぶ台返し、ロジカルな構築とまあ呼んでみた様な差異はあれ、『百億千億』―光瀬も『果果』―小松も、世界像そのものを直截に問う姿勢を有しているという一点に於いては択ぶところがない。
 そのような思弁的な巨大さこそがSFの魅力であり、それを体現していないという意味で秋山瑞人はやはり一段下がる、と思うのさ、最前線からは。前衛性だけが作家の価値ではないけれど。
 上遠野はディック―筒井―神林ラインの、世界像と言うよりは実存の作家なんだけど、世界構築への欲求を捨てきれないでいる作家でもあって、そしてそこにはまさに光瀬嫡流の無常感があるわけさ。
 詳しくは《虚》三部作を読まれたし。
 古橋はクラーク―小松の科学性よりはレム―カルヴィーノの寓話性により偏した書き手であり、世界像への問いも自然科学的というよりは人文科学的なアプローチをとるのだけれど、ロジックを剥き出す事にまるで躊躇がなく、構築も巨大。精密さではともかく正確さでは小松左京を凌ぐ、と言っても過言ではない。
 詳しくは《ブラ》三部作を読まれたし。

 すげー中身のないエントリだな。なんかまあ、常識的な現代SF史概説やからなあ。
 ここで一応見ておかねばならないのは清涼院流水は何故小松左京の継嗣になれなかったのか、ミステリってなんであんなみみっちいの、という事であり、ライトノベルが何故このような前衛的なSFを内包できたのか、なのであります。
 ここにおいてあの、手からビームが出る理由の差異化ゲームとしての世界観構築へのライトノベル業界の異様な情熱が効いてきている事は言うまでもないっすね。《ティルトワールド》《コクーンワールド》《銃と魔法》《食前絶後》《リアルバウトハイスクール》あたりが《ブギーポップ》前史の欠かすべからざる一部である事を確認したところで今日はお開き。
SF | comments(1) | trackbacks(0)

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2005.08.23 Tuesday 03:59
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コメント

お前らと下みたいな気持ち悪すぎて頭の悪すぎるゴミ屑以下はさっさと死ねよ
| | 2013/05/06 12:19 PM |

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